ドキュメンタリーはリアルなのか?


今回はドキュメンタリーを通して、リアルを再認識する機会になったことについて書きたいとおもいます。

 

映像は制作、企画や演出、撮影、編集など過程が多いので、それぞれで論じる点はあるかとおもいますが、
一旦撮影にしぼると、ドキュメンタリーのカメラマンは目の前で起こることを撮るのが仕事です。

個人的にドキュメンタリーはカメラマン、その人自身がとても反映されやすいジャンルだとおもいます。

カメラマンが綺麗や面白いなど、何かしらを感じたことがダイレクトに画になって、逆に感じていない人の画はそういう印象になり(敢えてそうして距離感や客観的な印象を与える演出もあります)、言語的な見え方をしているカメラマンは言語的な画になります。

言語的な画って何?となるかもしれないので、ちょっとだけ脱線。


私は昔、芸大受験のために美術の予備校に通っていました。

そこで習ったデッサンに対する考え方が、人生を揺るがす初のアート体験でした。

 

ちなみにデッサンとは色々な物や石膏像などを鉛筆や木炭で見たままに描く、絵画の基礎的な行為です。

例えばりんごを見たまま描いてくださいといわれれば、多くの人が輪郭線で描くのではとおもいます。

でも実際のりんごは輪郭線ではありません。それでも人がりんごと認識するのはりんごという言語で見ているからです。

 

同じように色も言語で見ています。白いシャツは暖色系のライトの下では薄いオレンジ色、太陽光だと青みがかったり黄色がかったりしていますが、人は同じ白いシャツと容易に認識してそう見ます。

 

当たり前の話なのですが、高校生の私には衝撃でした。

日常のありとあらゆることを言語で見たり、考えることに無自覚だったし、言語を外して見る世界のおそろしいほどの複雑さと難しさに打ちのめされました。

 

これは悪いことではありません。ものごとを言語=概念化することによってシンプルになり、非常に素早くコミュニケーションが出来るようになります。それによって高度な社会生活が当たり前に出来ています。

また同時に人は何かしらの言語以外の印象も感じています。可愛いやカッコいい、など形容詞的なものです。


さらに音も同じですが、人は聞きたいものを優先的に聞いたり、他をシャットアウトすることができます。

視覚も同じ。ほとんど無意識に見たいものメインに認識して、他を見なかったり認識しない。
その上とても興味深いことは、人は自分が見えているものを完全に100%同じ状態で他者と共有できないことです。攻殻機動隊みたいに電脳で共有できれば別なんですけどね。


つまりリアルって、あくまでも自分が感じていることでしかない。

孤独な生き物だなぁとおもいます。

映画ビューティフルマインドじゃないですけど、あれも他人事じゃないなとおもったりします。

 


じゃぁ世の中で使われるリアルって何でしょうか?
おそらくそれは自分がリアルに感じて、また他者もリアルに感じる、その重なりのグラデーションが比較的濃いもの。そういうことでしかないのじゃないかとおもいます。